2011 ウルタルⅡ峰(敗退記)

ULTARⅡ Exp.2011

ウルタル登攀記
第一章「しあわせ未満」

「僕はしあわせ反対論者なんだ。」と切り出して岡本太郎はこう語った。「人間がしあわせと思っているときは死がいちばん遠ざかったときなんだ。しかしこれは生きがいを失ったことになる。そんなしあわせは、僕は欲しくないね。」

 平和なBCでコックが作ってくれたピザを頬張りながら「しあわせって、こういうことだな」とつぶやく。この1カ月で最悪の降雪がテントを叩いてい。もしも半日行動が遅れていたら、今壁の中から動けずに取り残されていたはずだ。降雪の勢いを感じては「ああ、恐ろしい。」と他人事のように言いながら、2人はしあわせを噛みしめていた。僕らは、ウルタル峰南東ピラーに取り付き最上部のピラーを残して、逃げ帰ってきたばかり。9日ぶりにまともな食事にありついていた。この幸福のひと時は、太郎の言う「死にいちばん遠ざかったとき」に違いなかった。そんなものは欲しくないとバッサリ言い切る彼はカッコ良いけど、凡人の僕はその「しあわせ」と時に死に接近する「生きがい」とを行き来しながら共に欲している。

 2日前。嵐の中、6500mで天を仰いだ。厄介なルート取りを強いられながら、既に標高差2000m以上を登攀した。それでも後、800mも彼方にピークは聳えている。あの地点に登り詰めたとき、僕らにはどうしても好天が必要だ。そのチャンスをもらうために、そして「最高のしあわせ」を得るためにこの巨大なピラーに戻って来たいと思う。


出合い

3年前、ピオレドールの祭典で出会った小柄なおじさんが、3歳になる我が娘を可愛がってくれて綺麗なペンダントまでプレゼントしてくれた。「エベレストで拾った石で作ったんだよ」と説明するやさしいおじさんは、なんと僕の憧れの人物、ゴールデンピラー初登者のヴィクター・ソンダースだった。その年、偶然にも僕はゴールデンピラーの遠征を計画していた。その話をすると「ゴールデンピラーも素晴らしいが」と前置きしてから彼は自身がかつてトライしたラインを書き入れ「こいつは、登るべき大物だ!」と言って、ウルタル南東ピラーの写真をプレゼントしてくれたのだった。標高差は3000m以上、そのほとんどがクライミング。傾斜も相当あるらしい。実は以前から仲間内でこれは凄いピラーだと話題に上がることもあったし興味もあったが、この時は目前に控えているゴールデンピラーのことで頭はいっぱいで「ウルタルも、ついでに実物を見てこよう」と思う程度だった。

ウルタル峰南東ピラー。別名「ヒドゥンピラー」とも言われるこの大物が実際に自分の「生きがい」となったのは、ゴールデンピラーからのバックキャラバン時、対岸にそそり立つ美しい姿を見た時だった。ボロボロになりながら何とか登ったばかりだった当時の生きがい「ゴールデンピラー」がまるで子供のように思われる程にそれは立派だった。標高差3200mも切れ落ちるピラーは、まさに「登るべきライン」として僕の瞼に焼きついた。

ウルタルを最も知る者からの忠告

梅雨が明け、日本出発まで1カ月を切った夏真っ盛りの7月中旬。ギラツク日差しを受けながらパートナーの一村と新潟へ車を走らせた。世界で最もウルタルへ通い詰めた精通者、高橋堅さんを訪ねるためだった。様々なルートを探りながら足かけ約10年にわたるウルタル峰へのトライの末、南稜からの登頂に成功した執念の人である。

1985年頃から始まった初登頂への試みは10年以上続けられその間多くの登山隊が挑戦し、退けられた。日本の登山隊はこの山に関わりが深く、初登頂、第2登共に日本人パーティーによってなされている。その後の登頂は15年間途絶えたままだ。ウルタルⅡ峰が未踏峰でなくなった頃、僕は登山を始めた。初登頂を果たしたパーティーの熾烈な登攀記録をドキドキしながら山岳雑誌で読んだことを覚えている。登頂後、ABCでの悲劇的な死で幕を閉じた初登攀。その後、登頂を果たす高橋隊でも南稜で1人の犠牲者を出している。2度目のトライで命を落とした長谷川恒男の最期の山としてもウルタルを知っていた。ウルタルは、死の匂いのする危険な山として多くの日本人に認識されているはずだ。僕もその1人であった。

遠目に確認できるヒドゥンピラーは美しさばかりでアブナイとげは隠されている。まだ、ウルタルへの遠征が現実的になるまでは、あの巨大で美しいだけのピラーをイメージして「危険で恐ろしいウルタル」を遠ざけていた。思い描くのは技術的・体力的な困難を解決していくだけの快適な登攀。そんな甘っちょろい山でない事を感じながらも少しの間、現実逃避をしていたかった。

話を新潟に戻そう。

「この綺麗さに騙されるんだよなあ」と遠景撮影されたピラーを見て高橋さんはつぶやいた。彼もまた、ディラン登頂時に見た美しいピラーに魅かれてヒドゥンピラーへ取り付いている。このピラーには、90年代に日本隊を含め3隊、その後2隊が取りついている。いずれも力あるパーティーであったがピークへの突破口と完登の可能性を示すようなトライは行われておらず2005年のフランス隊が6000mに迫ったのが、いままでの最高到達点であった。大半の隊は数百mしか登れずに早々に敗退している。原因は、最下部のパートにあった。4200mからスタートするルンゼの技術的困難さと、パリザードピークからの落氷・落石に晒される危険性。ピークの名は、村人に恐れられていた人さらいの化け物「パリザード」にちなんで名付けられたものだ。危険で困難なルンゼが待ち構えている。貴重な写真と共にその危険をじっくりとお話しして頂き、この頃には現実を見つめ用意を整えていた僕は更に気が引き締まる思いを得て新潟を後にした。

「第1回目のウルタル遠征と思って焦らず、気をつけて行ってきて下さい。」ウルタルの本当を知る方からの忠告が心に響いた。

キャラバン

キャラバン2日目の行程を順調にこなし放牧用の石積みが残るシュクムシュンへ到着したが、ここからBCへ向かう最終日の行程が問題だった。悪路と聞いていた道自体どれなのか判然としない。4年前のアメリカ隊遠征時ここまで来たと言う者が1人いたが彼が自信なさげに指差すラインは不安定な砂と石で覆い尽くされた絶望的な大斜面だった。とても普通には通れそうにない。BCCONOSO」を知っていると言っていたポーター達の中で本当に行ったことのある者は実は1人もいなかった。皆、道が無いからもう進みたくないと言い出している。ポーターには一旦村まで下りて残りの荷を持ってきてもらうことにして、その間にルートの選定と整備をすることにした。

 大斜面のトラバースを避けた安全なルートを探したが徒労に終わり、結局危険な斜面を横切る他に方法はなさそうだった。ヘルメット無しではとても踏み込む気がしないザレ切った不安定な斜面に2人でルートを作りながらトラバースを始める。1時間程進むとケルンを見るけることができ、ヒドゥンピラーにやってくる登山隊がこの斜面を使っていると確信を持てた。シュクムシュンから見えるコルからBCを見下ろせると思っていたのに、コルから見渡す先は、ここまでと同様のガレ場が続いていた。急で雪渓も残る厄介なルンゼを下り更に斜面をトラバースする。1Pフィックスして、斜面のトラバースを走るように急ぐ。この先にBCが待っていなければ、一からルート探しをやり直しだ。祈るような気持ちでコルへ飛び出した。緑の草地が広がるBC適地。その奥に南東ピラーが大迫力で迎えてくれた。やっと見つけ出した喜びに2人して歓声をあげる。この時、その後に続くシュクムシュンでの停滞の日々など想像すらできなかった。BCまでのルートを確保しシュクムシュンに帰った僕らはとても疲れていて翌日を休養に当てることに異存なかった。しかし、翌々日、またその次の日と悪天候が続いてポーターはいつになっても上がってこなかった。やっと上がって来たと思ったら、その晩から嵐がシュクムシュンを襲った。石垣とブルーシートを組み合わせたポーターの寝床は湿った大量の雪で押しつぶされ石垣も崩れてしまった。不運な1人は落ちてきたデカイ石が頭に直撃し唸っている。キッチンテントはポールが2か所派手に折れ曲がり、生地は5mも裂けてしまって見るも無残だ。雪に埋もれぺちゃんこに潰されたテントの中から「Help
me!
」とコックの声が聞こえる。。。「壊滅的」ちょっと大げさなこんな言葉がピッタリの朝だった。

 まともな寝具を持たないポーターを村に返し、天候回復と共に上がってくるよう指示する。結局、BCを前にシュクムシュンで、なんと10日間も停滞が続くことになった。817日、しびれを切らして日本人2人だけでBC入りした。ポーターが荷揚げをBCまでするようになったのは、その翌日からである。

 苦労して辿り着いたCONOSOBCとして素晴らしい場所だ。草地が広がり小川が流れ正面には目標とするヒドゥンピラーの全貌が見渡せた。BC入りした時には青々としていた草花が赤く染まる頃、僕らは一応の高所順応を終えいつでも出発できるよう準備を整えた。9月は天候が良いと聞いていたのに今年も異常気象なのだろうか?不順な天候に振り回されながら時機を待ちつづけた。明日こそ出発だと思いながら寝袋に入り込むと、テントを叩く雪の音が聞こえた。「明日も出発できない。また1日延びてしまうな」と溜息をつきながらも、明日が平和なBC生活となることに安堵している自分がいる。期待と不安と恐怖とその他雑多な感情が入り混じる。「しあわせ」とは対照的なこんな時間を過ごすことも僕には必要だ。


BC周辺での順応クライミング

トライ

96日(1日目)
晴時々くもり BC(4300m)9:30-氷河上取付(4200m)-第1コル(4500m)16:15

待望の晴天を得ていよいよBCを発つ時がきた。下部、傾斜の強いルンゼは悪天が続いたことにより雪崩に晒され、うまい具合に白い雪と氷が詰まっているように見える。荒れ気味の氷河を歩き、出だしのルンゼを各々登っていくと安定したコルに出た。今日の行動は早めに切り上げよう。懸案のルンゼは月光も届かぬ深い切れ込みの中に消えていった。明日からが本番だ。

97(2日目)
晴後くもり第1コル(4500m)4:00-第2コル(5000m)13:00~15:40

1PFix
16:40

最初の大きな核心となるルンゼを各々ダブルアックス進んだ。恐れていたパリザードピーク側壁からの落氷もなくこの時間帯は、夜明け前の静寂に包まれている。パリザードに日が当たり出す前にこの危険なルンゼを抜け出さなければならない。傾斜が一気に出てきた所からスタカットに切り替えた。1週間分の食料を満載したザックを背負いながらでは、厳しすぎる垂直氷を強引にこなした後、ルンゼの中で最も傾斜の強いパートに入り込んでいく。そこには申し訳程度に白い物が垂れ下がったり、張り付いたりしていた。日差しで温まったルンゼ内では水が勢い良く流れ、飛沫を上げている。高所登山なのに本当にこんなことがあるのだろうかと目を疑ってしまったが、未だ標高は4800mにすぎない。パキスタンの登山で強い日差しを受けているのだからこれが必然なのだろう。トップの一村は、ザックを置いてからとろけた氷を慎重に登り始めた。大きく崩れる氷や雪塊やらをよけながら僕はビレイする。神経を擦り減らされる極端に悪いクライミングに加え、ルンゼの形状的にどうしても引っかかってしまう荷揚げにも時間がかかり、フォローの僕は随分と暖かくなってから登りだした。まるで沢登りに出てくる用な容赦ないシャワーを浴びながら1段目を駆け抜ける。2段目のドロドロに溶けた垂直の氷雪にアックスをぶち込むと大きく崩壊してむき出しの岩が現れる。激しい水シャワーは勢いを増し、グローブから染み入る水は体中伝ってブーツまで濡れていった。もう、形振り構わずロープテンションやプロテクションを引っ張ったりして這い上がった。広い平和的なルンゼでビレイする一村の先には今日の目標であったコルが見えている。ここまでくれば側壁から降ってくる氷雪も気にしなくて良さそうだ。落ち着いて登攀を続ければ問題ない。コルからは予想通りに厄介そうな明日のトラバースラインが見渡せた。行程の半分はほとんど高度を稼げない平行移動に近いトラバース。何度かクライムダウンもしなければならないだろう。まだ日も高いので1P分フィックスしてからクライミング初日を終えた。気にかかるのは明日の天気と、ブーツの濡れだ。インナーもすっかり濡れてしまった。先が思いやられる。

98(3日目)
晴後ガス 第2コル(5000m)4:00-シュルンド(5800m)19:00

星空の元、始まった長い1日。ダブルアックスでのトラバースはいつまでも終わりそうになかった。フロントポイントの連続で足がおかしくなりそうでもコンテなので休むこともできない。耐えてアックスとクランポンを氷に叩き込み続けた。後半は、左上する氷河氷の登攀で不安定な氷雪のリッジを登らされたり、斜め懸垂を強いられたりと変化のあるクライミングだ。しかし高度は相変わらず稼げない。昼間はジャケットもフリースも脱いでしまって網シャツ1枚になり素手でビレイするほど強烈な日差しが照りつけていたのに、昼を過ぎるとウルタルはガスで覆われてしまった。夕闇迫る中、重い雪を踏みしめていくとやっとシュルンドに辿り着いた。ロケットのようなツララが無数にロックオンしている恐ろしい天井ばかりだったが一カ所良い場所を見つけ出す。動きっぱなしの15時間で疲れ切った体をテントにもぐり込ませた。

99(4日目)
雪夕方晴 シュルンド(5800m)5:00-上部壁取付(6350m)18:00

今日も星空を見上げてのスタートであったが、氷壁に取り付くとすぐにガスに包まれ雪が降ってきた。昨日のハードワークで疲れも残っているので、ランペを抜けて尾根に出たあたりで泊まりたいところだった。シュルントを乗り越え氷壁をコンテで上がって行くと、ランペの入り口である。岩の混じるミックス上の壁は、中々手強そうだ。ザックの荷を少し軽くして、ビレイしてもらい登りだす。少々薄くとも安定した氷と適度に混じる岩のミックス壁を進むクライミングは思いの外、快適で楽しむことができた。ランペ後半からは、再びコンテ中心で休む暇もない苦しい登攀。技術的に難しいクライミングではないが、気の抜けない氷河氷。こういうのが心身共に一番つらい。降雪が強くなってきてスノーシャワーは激しさを増すばかりだ。少しばかり期待していた尾根との合流点には幕営適地はどこにも見当たらず、広い尾根上の急斜面は硬い氷で覆われていた。濃いガスとスノーシャワーのため、ロープの端につながっているはずのパートナーの姿は見えない。視界はロープ半分程の範囲に制限されていた。一定した急斜面ではくつろげる場所は一切なく僕達は闇雲に上を目指すしかなかった。雪稜となっている上部壁の取付、南東稜の主稜線に辿り着かなければ座るのも困難な最悪のビバークが待っている。もちろん常にクライマーを壁から引き剥がそうとするスノーシャワーのおまけ付きだ。それだけは回避したかったが、昨日見上げた雪の稜線はかなりの高みに感じられた。「本当に辿り着けるのだろうか?」強まるスノーシャワーに比例して高まるプレッシャーに追い立てられながら、休みなくアイスクライミングを続けた。止まないスノーシャワー、見通しのつかない行程、蓄積した疲れ。何万回も繰り返されるアックスの打ち込みが、時にいい加減になってしまう事を抑えるのは困難であるけれど、失敗は許されない。不規則に変化する氷質は時に脆弱なものになりアイススクリューを設置できる部分は限られていた。60mロープに1つか2つのプロテクションで2人は進んでいく。夕方、幸運にもガスが切れた先に目指していた雪稜のスカイラインを目にすることができた。陽が完全に沈もうとした頃、僕は雪のリッジを蹴り崩しどっかりと腰を下ろしてビレイした。安堵と共に深い疲れが体を支配している。手間のかかる整地をしていると、自分の体に異変を感じた。視界がぼやけてものが見えづらい。「まずい事になった。。。」久しぶりのこの感覚。夜からはカミナリの光が稜線を照らし、このトライ始まって以来の本格的な嵐となった。叩き付ける嵐のエネルギーを感じながら不安高まる夜を過ごした。

910(5日目)
雪後晴時々地吹雪 6350mにてレスト

昨夜のカミナリで今日のレストを決定し、朝になってもゴロゴロと過ごす。寝袋から出るまでもなくテントに叩きつける雪の音で悪天と分かった。10時頃になってようやくお茶を飲み、昼にラーメンを1個、夜にα100g2人で食べる。通常時は、朝・夜共に、ラーメン1個とα100gを消費するので、いつもの半分の量にして食い延ばしが始まった。通常時でも、基礎代謝にも満たない計算なのだが今日、摂取したのは1人当たり500kcal。ガスも多くの余裕があるわけでなかった。高所ではできるだけ避けたい事だけど、水作りもケチって1日1.5リットルを2人で分け合った。α米を作るのも今日からはお湯ではなく水と決定。

 昨夜から始まった視覚障害は、ゴールデンピラーで体験したものと同様だ。あの時はダブルアックスでリードしている最中に症状が始まり行動を妨げた。今はテントの中で生活するだけなのだから安全とも言えたが、寝袋から起き上がって水作りをする時でさえひどい時には、3分間に1度は物が見えなくなっている。じっとしていれば視界を取り戻せるのが分かっているのでパニックをおこすまでもないが、こんな状態が続くのならアタックどころか、下降さえおぼつかない。不安が押し寄せてくる。「なんで、こんな所に来てしまったんだ。もう7000mを超えるような登山は諦めよう」と思いながらも、もう少し時間が経てば回復するのではと期待しながら時間を過ごした。

この幕営地での2回目の夜が訪れた。深い睡眠より呼吸を意識して積極的に酸素を取り込もうとしたことが功をそうしたのか翌朝、症状は治まっていた。外は僕の心と同様に快晴である。「よし、出発だ!」

911日(6日目)雪
6350m地点5:30-敗退地点(6500m)10:006350m地点14:30

雪のリッジを最上部ピラーの基部までコンテで上がり、壁を見上げた。垂れ下がるツララが物語っているように、壁は垂直を超す傾斜で僕らを圧倒した。とても手の出せる壁でない。右の側壁に回り込みスタカットでの登攀が始まった。ここまで僕らは2000mを上回る標高差を登攀してきた。しかもトラバースの多い苦しい行程だ。しかし、ピークは更に1000m近い高差の先に待っている。標高的にも技術的にもここからが最終的な核心と言ってよい。薄く雪でパックされた下に瓦を積み重ねたような捉えどころのない不安定な壁を、騙しながら一村がリードし終える頃、ガスが湧き上がり雪も降りだした。さっきまでは手が届きそうに近くに見えていた東稜も霧の中だ。氷雪状のリッジをいくつかまたぎながらアイスクライミングをする頃には雪は本降りになってきた。「ヤバいぞ、頼む!回復してくれ」そんな願いは全く叶わず天候は悪化を続け、壁のいたるところからスノーシャワーが激しく流れ落ちる最悪の状態に陥っていく。川の流れの様なスノーシャワーに揉まれながらも進んでいく一村は15mも進むと白いガスの中に完全に消えてしまった。「あれは、自殺行為だよ」出国前に訪ねた新潟でウルタル精通者の高橋さんがつぶやいた一言が頭の中で繰り返されている。初登者たちの大胆極まるスタイルを指しての言葉だった。これまでの苦しい行程を振り返る。やっと勝負できる場所までやって来たというのに。これから、本当の意味で僕らのウルタル登攀が始まるはずなのに。ここで引き返すことは遠征の終わりを決定づけるものだった。次のトライは僕らの消耗具合と登山期間を考えれば不可能だ。すべてが雪だらけのビレイ点で一村が待っていた。顔を見合わせる。「もう限度を超えている」それが正常な判断だと分かっていたって、自分に納得させるのは簡単なことではない。5分程だろうか、ビレイ点にぶら下がって話し合ったり様子を見ていたりしたのは。2人の考えは同一だった。

敗退を決めて懸垂下降の準備にかかる。2ピッチ斜め懸垂で同ルートを下ったが、スタカットに切り替えたトラバースでは濃いガスの為にルートファインディングを誤り、少々時間を食った。数時間前に通った部分もスノーシャワーに磨かれてトレースは跡形もない。時折ガスの切れ間から青空が見える時があって下降を悔やんだが、すぐガスの白い闇が戻ってきて下降の判断は正しいんだと自分を励ます。気まぐれな天候に、敗退を決定した不安定な心は翻弄されていた。

懸垂下降30P

912(7日目)雪時々晴6350m地点5:45-シュルンド(5800m)12:00

913(8日目)
雪時々晴シュルンド(5800m)5:00-第1コル(4500m)20:00

914(9日目)雪後晴第一コル(4500m)7:30-氷河(4200m)8:30

BC(4300)12:30

晴れた良い天気と思って下降を始めるといつの間にかガスに包まれ視界を奪われる。そんな天気の中、氷壁を懸垂する。よくこんな所をコンテで上がって来たものだと呆れるほどに傾斜は強かった。下降2日目。10ピッチのトリッキーな斜め懸垂の連続を終えると懸垂下降では対応できないトラバースが待ち構えている。連日のハードな行動と粗食で8日間を耐えてきた身体はボロボロだ。昨夜夢にできてきた娘と妻の顔を思い出し、気合いを入れ直した。かつてはトライ中に家族のことを思い出す事など皆無だったけど、こんな場面で思い出すのは悪くない。下降中最も気をつけるべき部分をミスなくしっかりこなして第2コルへ辿り着いた。15時を過ぎている。いつまでも休んでいたい疲れた体を無視して、さっさと下降を再開する。標高差2000mの下降では、70m用意した捨て縄も尽きてしまいスリングやメインロープを切りながら懸垂下降を続け、4500mの安全なコルに降り立った。もう食べる物はほとんどなかったが、夜はデポしたMP3プレイヤーで久しぶりの音楽を楽しみながら早くも来年の再トライの話で盛り上がっていた。

 僕らのトライは始まったばかりだ。

タイム

96日(1日目)
晴時々くもり BC(4300m)9:30-氷河上取付(4200m)-第1コル

97(2日目)
晴後くもり第1コル(4500m)4:00-第2コル(5000m)13:00~15:40

1PFix
16:40

98(3日目)
晴後ガス 第2コル(5000m)4:00-シュルンド(5800m)19:00

99(4日目)
雪夕方晴 シュルンド(5800m)5:00-上部壁取付(6350m)18:00

910(5日目)
雪後晴時々地吹雪 6350mにてレスト

911日(6日目)雪
6350m地点5:30-敗退地点(6500m)10:00

6350m地点14:30

912(7日目)雪時々晴6350m地点5:45-シュルンド(5800m)12:00

913(8日目)
雪時々晴シュルンド(5800m)5:00-第1コル(4500m)20:00

914(9日目)雪後晴第一コル(4500m)7:30-氷河(4200m)8:30

BC(4300)12:30

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